「二軍は試合より練習」でイースタン・リーグが休止に

 1955年に始まったウエスタン・リーグで目立ったのが南海の野村克也だった。一年目に肩を痛め成績を残せず解雇されそうになるも、2年目の56年は二軍で一塁手として全試合に出場し打率.321を記録、翌年には正捕手となり大選手への道を歩むこととなる。

野村克也=1957年2月撮影(写真:共同通信社)

 しかしイースタン・リーグは56年に休止となる。有力球団のオーナーが「二軍は試合より練習」と言い出したからだとされる。また試合にかかる経費を問題視したともいわれる。

 5年間休止したのちに、イースタン・リーグは61年に再開、以後、NPBのファームはイースタン、ウエスタンの2リーグで行われている。

 当初は、イースタンが巨人、ヤクルト、日本ハム、大洋、ロッテの5チーム、ウエスタンが西鉄、広島、阪神、阪急、南海、近鉄、中日の7チームだったが、79年に西鉄が西武になって埼玉県に移転し、イ・ウともに6球団となる。

1986年4月9日、この年にプロ初シーズンを迎えた巨人の桑田真澄がイースタン・リーグ公式戦に初登板した。この試合の始球式には正力亨オーナーが駆け付けるなど、注目の一戦となった(写真:共同通信社)

 しかし2004年の球界再編でオリックス(元阪急)と近鉄が合併。楽天が宮城県に新設され、イースタン7、ウエスタン5となった。奇数の球団では試合日程が組みにくいため、24年からイースタンに山陽クラウンズ以来の「二軍だけのチーム」であるオイシックス新潟、ウエスタンにくふうハヤテ静岡が加入し、イ8、ウ6球団体制となっている。

 公式サイトに二軍全選手の記録が公開されたのは2005年から。それ以前の二軍記録は、「オフィシャルベースボールガイド」に一部掲載されている程度で、ほとんど実態がわからなかった。

『二軍史』(啓文社書房)の著書がある野球研究家の松井正氏は、当時のスポーツ紙や野球雑誌などを国会図書館などで調べて、二軍の歴史を独自に解明した。今回の日本の二軍史については、松井氏の研究に基づいて書いている。