人の能力は、テストの点数のような測りやすいものばかりではない(写真:optimus/イメージマート)

 私たちはメリトクラシー(能力主義)社会の中で生きている。しかし、私たちの能力は正しく測られているのだろうか。今の能力主義社会の先に、希望ある未来が待っているのだろうか。『能力主義をケアでほぐす』(晶文社)を上梓した兵庫県立大学環境人間学部教授(専門は福祉社会学)の竹端寛氏に聞いた。(聞き手:飯島渉琉)

──本書で問題にされている「能力主義」とはどのようなものですか?

竹端寛氏(以下、竹端):「東大、京大に行けば一流である」や「Fランク大学では意味がない」といった感覚で、能力を偏差値という物差しで評価するのが能力主義の最たるものです。

 そのような典型的な学歴思考は少しずつ減ってきていると言われますが、実際には就職活動で有名大学の卒業生は早期選考から採用が決まります。学校の勉強という一元的に評価できるものでその人の評価を決めてしまうことを、この本の中で能力主義と呼んでいます。

 学校の5科目の勉強とテストが評価のすべてなのです。しかしそれは、社会が第三次産業化されているから、そのような評価になっているだけのことなのです。

 コミュ力がなくても樹木の心が読める木こりや田んぼを上手に管理できる農家、腕利きの船乗り、そのような人たちも本当はたくさんいるはずなのに、そうした能力は測定不能とされて評価されません。

 あくまで学校の勉強という、極めて矮小化されたところで評価を与え、優劣を付ける議論をしている。能力の測り方があまりにも限定的なのです。

──なぜそうした限定的な評価の方法になったのだと思われますか?

竹端:これは、学校教育やテストがどのように始まったのかという部分に関わります。寺小屋で学んでいた江戸時代までは、読み書きそろばんが主要な学びの内容でした。

 江戸時代の鎖国が終わった後、日本は欧米と競い、欧米の植民地にされないように、最低限の知識を詰め込むための学校というシステムを作りました。その中で、能力を評価する基準が教科ごとのテストでした。結果を測りやすい指標で評価すれば、生徒に序列を付けることができますから。

 学力とは違い、さまざまなことに気がついて配慮ができる能力や、さりげなく人助けができるという能力は評価することが難しい。その点「国語は何点、算数は何点」という評価は測りやすい。測りやすいものを測るのが能力主義の原点だと思います。

 情報処理能力が高い。上手に話ができる。そういう能力は羨ましがられがちですが、それとは違う領域や場面で発揮される能力も無数にあります。ごはんを美味しく作ることができる、洗濯物が上手に畳める、泣いている人の隣に来てすっとハンカチを渡すことができる。そういうことも、本来は能力として評価されるべきだと思います。

──本書では、アメリカの政治学者マイケル・サンデル氏の能力と運に関する議論を参照しています。