加納城 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回の名城シリーズは、岐阜市にある加納城を紹介します。

もう一つの岐阜城

 岐阜で城といえば、たいていの人は織田信長の岐阜城を思い浮かべる。信長が築いた岐阜城は、彼が安土に移ってからは嫡男信忠の居城となり、両人が本能寺の変に斃れたのちは、信忠の遺児である秀信(三法師)が継承した。その秀信は、慶長5年(1600)に豊臣政権が二分されたとき西軍側に属したために、福島正則ら東軍の先鋒諸将の猛攻を受け、岐阜城は陥落してそのまま廃城となった。

加納城は荒田川に沿う微高地に築かれた平城だ(左手の木立)。右手遠方に岐阜城が見える

 岐阜城の歴史は、これでおしまい。ところが、城下町岐阜の歴史はここで終わったわけではない。あまり知られていないけれども、関ヶ原合戦の直後にもう一つの岐阜城ともいうべき平城が築かれて、近世城郭として幕末まで存続していたのである。名を加納(かのう)城という。

 加納城は、近世城郭としては凡城といってよい。そもそもがたいした規模の城ではないし、はっきり残っているのは本丸の石垣と、埋められた水堀の跡くらいなものだ。それも旧軍や自衛隊が使っていたおかげで、かなり変形しているし、二ノ丸以下は市街地化してしまったから、写真映えしないことおびただしい。

加納城本丸の堀跡。堀は埋められているが、撮影日前日が雨だったため地面には水がしみていた。左手木立の中に石垣が見える

 だから城好きの人でも、加納城を見るためにわざわざ岐阜に行ったりは、まずしないだろう。岐阜城や大垣城を見に行ったついでに、時間が余ったからちょっと寄ってみるか、くらいにしか思われていない地味な城なのである。

 けれども、前回(6月5日掲載)の郡上八幡城に続いて美濃の城を、それもずいぶん地味な加納城を、あえて採り上げたのにはワケがある。城とは戦略の中に位置付けられてこそ存在しうるものなのだ、という原理をご理解いただきたかったからである。

本丸東側・外枡形部分の石垣。本丸の石垣は所により比較的よく残っている

 では、加納城は何モノなのかというと、まず関ヶ原の直後にこの城を築いたのは奥平信昌という人だ。しかも徳川家康本人が現地で地形判断をした上で、城地を選定している。

 戦国史好きの読者なら、いまピンときたかもしれない。奥平信昌とは、長篠合戦のときに長篠城の城将として奮戦した武将で、家康の娘亀姫を娶っている。家康は加納の地を重視して、信頼の置ける家臣に与えたのである。しかも知行は10万石だから、譜代大名としては充分に中堅クラスだ。それほど重視している場所なのに、なぜこんな地味な城?という疑問の答えを見出すことができるのが、戦略なのである。

本丸北西隅の天守台跡。後世の改変によりかなり変形している

 関ヶ原合戦後における大名と城の配置とは、すなわち徳川軍の戦略配置であり、それは対豊臣戦を前提としたものに他ならない。わけても上方から関東までのエリアではっきりしている。

 まず大坂方に対する前衛として彦根城(井伊直政18万石)と伊賀上野城(藤堂高虎22万石)があり、二線陣地として大垣城(石川康道5万石)と桑名城(本多忠勝10万石)。これらの後方には、徳川軍の集結地としていた名古屋城(徳川義直)が控え、東海道筋には中小の譜代大名が、大御所家康の駿府城をはさんで江戸まで並ぶ。対豊臣戦に際しての徳川軍の行軍序列を、まんま地図に落とし込んだ配置といえよう。

三ノ丸北東隅付近の現況。手前の道路が堀跡で、画面奥の幼稚園敷地内に土塁の一部が残っている

 そんな中にあって加納城に求められるのは、まずもって中継拠点である。だからこの城の大手口は、中山道に直接面している。ただし万一、豊臣方が攻勢に出て彦根城が抜かれたら、徳川軍は名古屋城に兵力を結集させて反撃を策するべきであって、加納城で徹底抗戦する必要はない。敵の先鋒部隊を一両日ばかり引きつけて、名古屋での反撃態勢を整える時間を稼ぎ出せれば上出来だろう。

大手門跡。画面右奥に見える木立が本丸で、手前を左右に横切る道路が中山道だ

 だとしたら、加納城をなまじ堅城に築いても、無駄どころか、かえって兵力の配置や運用が混乱を招きかねない。だからこそ家康は、奥平信昌を選んで「ここに、こういう城を築け」と指示を出したのである。

 つまり、加納城は凡城であることにこそ、戦略的価値が秘められているのである。こういう城を楽しんでこそ、「大人の城歩き」ではなかろうか。

本丸に残る石垣。名城巡りだけでは決して理解できない城の価値が、ここにはある