
(歴史家:乃至政彦)
ジャンヌ・ダルクは本当に「文字も読めぬ貧農の娘」だったのか? 史料を読み解き、その情報を整理すると、
ジャンヌ・ダルクは貧農の娘だったのか?
5月30日はジャンヌ・ダルク(1412〜31)の命日。
彼女の生涯は神秘に包まれている。
今回はその出自を見ていこう。
ジャンヌ・ダルクは貧しい農民の娘と見られることが多い。
史料的な裏付けが2つある。
ひとつは、文字の読み書きが全くできなかったことだ。当時の裁判記録に「文字も解せぬ」「字も読めぬ」と書かれ、フランス側の史料でも、ジャンヌに送られた手紙は近くの者が読み上げて聞かせ、ジャンヌ署名の手紙もその言葉を聞いた者が代筆していることを確認できる。
もうひとつは、処刑裁判となった1431年2月22日の第二審理で、彼女自身が自分のことを尋ねられて「自分は貧しい娘」(高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』白水社、1984・2015)と述べていることだ。
これら2点から、創作物や伝記の類で、貧しい農民の娘として描かれることが多かった。
だが、この2点ともより掘り下げてみると、別のことが見えてくる。
文字の読み書きができなかった理由
識字能力がない→まともな教育を受けていない→だから貧しかった──という論法はどこまで妥当か。
結論からいうと、ジャンヌに識字能力がないのには、理由があった。
戦災によって教会が焼失し、識字能力を習得する機会を得られなかったのだ。文字を読める施設がない、教えてくれる施設がない。
それにジャンヌは中世農民の長女である。富裕層の長男などと比べて、教育優先度はどうしても低くなるだろう。
しかも時代は「百年戦争」と呼ばれる長期の戦乱の真っ只中にあり、ジャンヌの村も国境近くにあることから、教会復興の目処は立っていなかった。これで文字の読み書きを学べるはずもない。
もちろん自分が信奉する『聖書』を読むこともできなかった。
それでも彼女は裁判中、『聖書』にある教えや祈り文言の一部をしっかり暗唱している。
戦災により朽ち果てた村の教会で、司祭から教わった教育の賜物であっただろう。