撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は大河ドラマ『べらぼう』でも話題の、一橋治済について考察します。

領地がなければ参勤交代もない

 大河ドラマ『べらぼう』では、生田斗真の演ずる一橋治済(はるさだ)は策略家として描かれている。将軍家の後継争いで主導権を握るため、次々と謀計をめぐらしたという話は、もちろんドラマとしてのストーリー構成であって史実ではない(少なくとも現在の歴史学においては認識されていない)。

江戸城の堀端に立つ一橋家屋敷跡の碑。現在の丸紅本社ビルのあたりだ

 こういう話が出てくると、「史実と違う、けしからん!」と息巻く御仁が現れるものだが、大人げない話である。そもそも「大河ドラマ」は、「ドラマ」である以上はエンタテインメントであって、最初からフィクションでしかないからだ。

 たとえば、一ノ谷合戦で源義経がどう戦ってどう勝ったのか、明智光秀がなぜ織田信長を討とうと思ったのか、なんて本当のところは誰にもわからない。戦国時代の合戦だって、映像で正しく再現なんてできっこない。

 以前、ある戦国モノの大河ドラマの軍事考証を筆者が担当した際、クライマックスで舞台となる城砦の原案を案出したところ、「西股さんの設計通りにセットを作ると、撮影中に本当に人が死ぬからダメ」と局からいわれたものだ。結局、どう描こうがフィクションにしかならないのだから、それを踏まえた上で「もっともらしさ」を楽しむのがドラマというものだろう。

江戸城の堀と一橋家屋敷跡(右手ビルのあたり)

 以上の前提に立つならば、一橋治済の陰謀という筋は、なかなかうまく考えられたフィクションだと思う。ここで理解しておきたいのが、一橋という家の立場だ。

 一橋・田安・清水の御三卿は、8代将軍吉宗が自分の血統を絶やさないために創設した、いわば将軍家のスペアである。御三卿は10万石の大名として、江戸城の外郭部に屋敷を与えられているが、領地を持っていない。幕府財政の中から、10万石ずつの「官費」を支給される形で家が成り立っているのだ。

 領地がなければ参勤交代もない。それどころか、自前の家臣団も持っていない。家老などは一応いるものの、身の回りの用を足す最低限の人数くらいである。領国経営も家臣団統制も必要ないから、充分な安定収入があって、あとはヒマなのである。

御三卿は御三家と違って城も領地も持たない家だった。写真は和歌山城

 仕事はたった一つ。万一、将軍家に跡継ぎがいなくなった場合に「はい、どうぞ」と自分なり息子なりを差し出すことだ。とはいえ、自分で手を挙げるわけにはいかない。リリーフの投手が、監督・コーチに指名されてはじめてマウンドに向かうように、幕府中枢部から声がかかるのを待っていなくてはならない。

 となれば当然、幕府中枢部の動向や権力闘争の様子を、細心の注意をもってモニターしていることになる。そして、自分にお鉢が回ってくる可能性を見つけたら、上手に立ち回らなくてはならない。ブルペンの中継ぎ投手が、試合の経過を見ながら肩を作ってゆくようなものだ。

 その一方で、直属の家臣団を持たないから、組織として動くことができない。家臣たちの中から才能ある者を抜擢して、頼れるブレーンやスタッフを構成することもできない。生田斗真演ずる治済が、孤独な人物として描かれているのにはワケがあるのだ。

江戸城の天守台。『べらぽう』の時代には天守が失われてから100年以上たっていた

 ちなみに、徳川幕府最後の将軍となった慶喜も一橋家である。慶喜は水戸の徳川斉昭の子であったが一橋家に養子に行き、最終的に将軍家を継ぐこととなった。慶喜の場合、若干の近臣は水戸家から連れていったものの、組織として動かせるほどの人数ではない。 

 しかも、幕府旗本の中には水戸家(というか斉昭)に反感をもつ者も多いという状況で、江戸城ではなく二条城で将軍の座に就いている。慶喜が、政治的な駆け引きとして大政奉還を選択し、鳥羽伏見の敗戦後は江戸城への逃走を決断した背景には、信頼できる直卒の武力を持たない立場で、幕末の動乱に対応しなければならない、という事情があったのだ。

東京谷中にある徳川慶喜の墓所